umidasにとっての「くだらない」

くだらなさから連想することは人によって様々でくだらなさを実際に感じるものも人によって様々です。

 

あいまいなことば。

未知数な可能性のあることば。

 

こたえのない、あり様が様々で、たくさんの意味が共存できる存在シンボルとして、umidas耕作所では活動の起点にこのことばを置いてみることにしました。

 

そして、これから、「くだらない」ことから日常の「ゆたかさ」について、みんなでこのことばの意味を共に解釈し耕し続けていけたらと思っています。

 

現時点でumidas耕作所では、「くだらない」ことについてこう解釈しています。

 

誰に言われるわけでなく、自分が好きだから、やってみたいから、こだわってしまうから、楽しいから、夢中になれるから。〜しなければ!ではなく、〜したいから♪の心意気からの自分軸の行動。

 

それは、その人ならではの表現の世界

 

umidas耕作所では、くだらなさから多様な表現と日常のゆたかさを、社会のゆたかさをうみだしていきたいと夢描いています。

なぜ、「くだらない」にこだわるのか?

社会、組織、教育・・・すべては、ある目標や目的に向けてシステム的に機能させていくために存在しています。しかし、そこにある「正しさ」と個人がゆたかに生きて行くこととは、残念ながらイコールではないことが多々あります。人々の心の中でひっそりと自身に対して微笑みかける「くだらない」。 

実は、それが自身の生きる喜びや生きがいにとっては、かなり重要だったりします。 

それなのに、あまりにも個人的でかつ「くだらない」ので、社会や他人に対しては堂々とは吐露しにくく、感覚的な要素が言語化しにくく、さらには社会的な正義を振りかざした言葉には圧倒されるばかりで、「くだらない」の存在自体を自分自身が忘れてしまう不幸が起こったりします。
さて、これでよいのでしょうか?
生きるゆたかさとは何でしょう?
まだ、システム化されていない余白に、素直にもっと目を向けてもよいのだと思います。人からは、いくら「くだらない」とか「無駄」とか言われようが。
私たちは、あなたの中にある楽しい「くだらない」に耳を傾けます。そして、少しほぐしたり、解放したりするお手伝いができればと思っています。
そこから楽しい新たな共感や人つながりとなり、ゆたかな日常が広がっていくことを信じて。